以前、ここに「若者の定職離れ」を書いたが、あれ以来友達に会って話をする機会があったのでそれについてちょっと書かせて頂きます。

この業界(特に製造現場)は「自動車絶望工場」なんて言われたりする。期間工の書もたくさんある。最近だと福井浩二の「トヨタの秘密」なんかがあったりする。(読んでみたが自分の会社での自分の経験と違っていたのでビックリ)

話をおおまかにすると「労働」というものは体を拘束され、つまり身体的自由を奪われ、その代償として賃金を得るという行為である。その苦しみは、歴史的に見ても数々の奴隷(的)労働となんら変わらないのではないかとさえ僕は感じているが生きるための手段であって一部の人間を除き、誰もが経験しなければならない試練だと僕は思う。
もちろん、極論だと思われるだろう。今現在の労働とギリシア時代の奴隷労働を同じ土俵の上で論じるのは無理があるし待遇も違う。
奴隷労働と現代の労働の違いを議論するうえで、合法か非合法かという基準は適切とは思えない。ギリシア時代に現代のように週40時間労働を定めた労働基準法があったとはとても考えられないし、法律のないところに合法・非合法というもののボーダーラインはない。あるいは法律があってもそれを守らない現代の労働のほうがもっと問題だとも思える。つまり労働問題の本質は、法律によって保護されているかどうかにあるのではない。それが自分のやりたい仕事かどうか、人に使われているのか否かにあるのだと思う。
僕は最初「契約社員」だった。5ヶ月の契約で期間満了した後、違う仕事をするつもりだった。自分自身「定職に就く」ということが嫌いだったのだ。その上ラインで作業服を着てドライバを持ち、ボルトを締めるという単純な作業が大嫌いなときがあった。
もちろん、全体から見れば、その細分化された作業の繰り返しで1台の車を完成させ、市場に出れば100万円以上で売れるのだから意味はあるだろう。会社側とすればそれこそが重要なのだ。しかし、問題はどこに視点を置くかということにある。労働者にとって見れば、本人は、自分の意志とは無関係に動く巨大なシステムの、末端のごく一部でしかない。これはどんな仕事に就いてもある程度は共通することだろう。経営者になろうが「システム」を無視して好き勝手をすれば、やがてしっぺ返しを食らうのだろうし。
そういう自分でコントロールできない点のもどかしさはアルバイト・正社員両方にいえると思う。
やがて一連のリコール事件が起きた。自分のやっていることの大切さが実感できた。例えどんなに小さなことも続けることに意味があることがわかり、期間満了後正社員になった。現在も部署や業務内容さえ変わったがものつくりに関わっている。
システムというのは恐ろしいものだ。「システム」に入って支配されてしまうと、次第に「飼い馴らされ」、疲労で考えることさえ億劫になってくる。そしてついには自分が「システム」に支配されているという事実も忘れていく。このようにして無気力で感情のないAIBOにも似たロボット(社蓄)が出来上がる。

ただ「自由」を奪われたことに対する見返りは大きい。厚生面や給与面で会社は報酬を出すわけだから労働者はまるで餌付けされているかのように今日も会社に向かうのだろう。

友達に言われた「そんなに稼いで、何に使うのさ」お金というのは不思議なものだ。本来比べることのできないものの価値を数字で一元的に表示してしまうのがすごい。では、お金を払うべき価値があるものとは何か。お金をいくら払っても惜しくないものとは何か。話をした友達はフリーターだけど彼には自由がある代わりに「お金」がない。僕はある程度の自由(自分が自由であることを自己確認する時間)ならお金と引き換えに得られるものだと思っている。例えばそれはおいしいものを食べたり、好きなものを買ったり。お金があればある程度は備えれる。自由だけあってもお金がないために「無駄な時間」をすごすのはもったいないと思ったのだ。しかし自分が自由であることを自己確認するのにいちいちお金を支払わなければならない人生は結局(心が)貧しいということなのだろうか?

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